フィクションです

いつか来てしまうお別れに

 

 

実家の愛犬が亡くなって半年が経った

 

家に帰ったら、尻尾を振って出迎えてくれることが当たり前だったから、玄関を開けてカタカタカタと木製フローリングと少し伸びた爪が当たって響く、近づいてくるあの音が聞こえないことが寂しい

 

かなりおバカな犬で変なところだけズル賢いそういうところが好きだった

トイレを覚えるのも遅かったし、芸は何一つできなかった だけど肉の匂いには敏感で、人間が食べるものを欲しがって、うまいこと引っ張り出して隠れて食べて怒られて、白々しい顔をするのが得意な犬だった

 

わたしが小学生の頃は近所の子達と一緒に田んぼのあぜ道を駆け回ったりしたね、その田んぼも更地になって家が建って、もうあの頃の姿は残ってない

 

犬用の小さいベッドにはかろうじてまだ匂いが残っていて、ああ長いことここにいたんだって実感が静かに頬を伝う

リビングの窓から見える花壇に埋葬して、そこには紫陽花の苗を植えている まだまだ小さい苗だけど咲く頃にはきっと、その匂いも消えているのだろう

 

時間は進む ただ進む それに抗うことなく流れるようにその事実を受け入れるだけだ

 

綺麗な紫陽花が咲く頃に、わたしは一体何を感じているのだろう

変わらないのは、愛犬に会いたいということで、それはきっとずっとだろう

 

 

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☺︎

 

あなたの語る綺麗で純粋無垢なその苦悩が、わたしには眩しくて羨ましくて妬ましくて、「他人に語れてしまうほどの挫折でよかったね」と思ってしまう心の狭さ、醜悪さ

コンプレックスがかすかに滲むこの顔がいつまでたっても好きになれずに、もう全部が終わる

 

もういっそのことぐちゃぐちゃに壊れてしまいたい、中途半端なこの感じが1番気持ち悪くて吐きそう、吐きそう吐きそう吐きそうになって、トイレでうずくまり眠る

あなたにはあなたの地獄が、わたしにはわたしの地獄がきっとあったよねって、それがわかる人としか迎えたくない朝がある

 

そしてまた取り繕って普通に過ごす、そうしてやり過ごす 毎日が少しずつ狂っていく 今日も明日もこれからも静かに続いていく緩い地獄でいつまでも

 

 

 

 

自己暗示

 

頑張るというのはとても根気がいるし労力も伴う 頑張ったのに頑張った分の結果が出なければ悲しいし嫌になる 馬鹿馬鹿しくなっていく

 

でも頑張っている人を妬むだけの過去の自分にはもうなりたくない 自分が頑張らないことに目を背け、言い訳ばかりしていたあの頃の自分のみっともなさを今やっと認めることができている

 

胸を張って「頑張ってよかった」と言いたい その瞬間のために汗を流し、ときには涙を流している その流れる水滴と無駄に詰まった脳みそに人間である意味がきっとある(と思う)

 

頑張らない人生はつまらない、壁があり敵がいて上手くいかないからこそ面白い そう思える人と一緒に苦難を乗り越えたい 価値観は違くていいから熱量が同じの人間と出会いたい

 

自分は全然まだまだ だ

 

進む 進め

 

 

 

 

残暑

 

高校2年の夏を未だに引きずっている

 

少しずつ苦しくなっていった学校生活、逃げるように自室に閉じこもり、必ず行かなければいけない夏季補習は1日も行かなかった

学校をサボっているため親とも気まずく、話せばすぐ喧嘩になって殴られて黙らされる

そういう夏だった

24℃の冷房が効いた子供部屋と窓から差さる日の強さ、セミの鳴き声のコントラストが強くて眩しくて、置いていかれる夏 静かにボロボロになる自尊心に気付かないフリをしていた

 

親とは気まずいままだが、入院している祖母のお見舞いに行けと強制的に外に連れ出されていた

祖母はもう10年近く病院や介護施設を転々としていて、元々小さく華奢だったが、それが更に痩せ細って骸骨のようになり、ボケてまともに会話もできず、爪は伸び放題で、自力ではまっすぐ歩けない そんな状態なのに、それでも家族に会うとニコニコ笑うそんな祖母と顔を合わせたくなかった

わたしはおばあちゃんのことが大好きだったし、おばあちゃんもきっとわたしのことが大好きだったと思う

だから余計そんな祖母を見ると辛くて胸が苦しくなって泣きそうになっていた

帰り際に「学校頑張ってね」と言う祖母に胸を張って返事ができない自分が本当に嫌だった

お見舞いといっても、少しだけ顔を合わせたら逃げるように車に戻っていた

 

そしてその夏の終わりにおばあちゃんは死んだ

 

祖母の葬式で久しぶりに着る高校の制服はとてもキツく動きにくく感じた

空気の悪い親族間で形式的な通夜と葬式を済ませ、祖母は骨と灰なった

 

夏の終わりが来るたびにこのことを思い出す

もっとちゃんと向き合えばよかった、おばあちゃんにも自分にも わたしは逃げてばっかりだったし逃げた先には悔いしかなかった

1人が寂しくて辛くて眠れない夜は、「手を繋いで寝よう」と言ってくれたおばあちゃんのこと、あの冷たくて骨張ったか細い手が幼少期のわたしの小さな温かい手を握って毎日一緒に寝ていたことを思い出して少し泣く

おばあちゃんもきっと寂しかったのだろう、その手をもう握れないことを思い起こしてわたしも寂しくなる 

 

今年もまた夏が終わる

 

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なんてことない光とか

 

 

また有名人が自死してしまったというニュースだ そういうニュースの度に会ったことのない人だけれど、それなりに胸が痛むし悲しくなる

 

わたしは双極性障害で、自殺未遂をして病院に運ばれたことがあるから、死にたいと思う気持ちは痛いほどわかる というかこんなクソみたいな社会で死にたいと一度も思ったことのない人間の方が異常だ

わかるからその選択をしたことに対して否定はしないし、本人が望んだのであれば、結果はどうであれその意思は尊重するべきだと思う

 

ただわたしはずっと頑張ってきた 今までこんなに頑張ってきたのにここで自殺したら割に合わないよなといつからか思うようになった でもそんなのは意味を持たないことを知っている

大きな希死念慮に飲み込まれ、気づいたら死んでいるなんてことはザラだ その瞬間は突然来る

明日かもしれないし来年かもしれないし十年後かもしれない、一生来ないかもしれない

 

死んだらそこでもう終わり 後悔もクソも無い

ただ事実が残るだけだ

あなたも毎日頑張っている でもそれを終わらせたくなる日もある 別にそれでいい

流れゆく日々の中であなたはわたしとちゃんと生きていて、そこにいた それが過去になっただけということ

瞬間の繰り返し、繰り返し、繰り返しに終わりを告げる 本当にただそれだけ

ただわたしはあなたがいないときっと寂しいし、わたしが死んだときはあなたも寂しがって欲しい 生きてるうちは生きててよかったなんて思わないけど、わたしが死んであなたが寂しそうにしていたら生きててよかったって思えるかもしれない わからないし、わからないと思うけど

でもそれだけでいい それだけが本当に

 

 

 

 

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走馬灯 みる前にまた灯してよ

小さく揺れてる あなたの光

 

 

 

 

一生のお願い

 

そういえば、かわいいとか好きとか言ってくれなくなったねとシラフの状態で気がついた

お気に入りフォルダにいれるくらいあなたの顔がわたしは好きだけど、そっちはどうかな

「愛情表現はちゃんとするほうです!!!」

ビックリマークがたくさんついてたあの頃のLINEが懐かしい

気がついた瞬間全部がどうでもよくなって、丁寧に築いたこの関係をぶち壊す その瞬間が1番気持ちいいんだ

 

さようなら また明日

手に握っていた大切なあなたからの手紙はもうぐしゃぐしゃで汗で滲んで読めなくなっていた

 

 

 

 

サブカルワナビーと恋愛的価値観

 

『花束みたいな恋をした』を観た。

 

公開当時、わたしは本屋でバイトをしていたが、ほぼ毎日今村夏子の文庫本の在庫を若い人に聞かれていた。なぜかと同じバイトの子に聞いたら、「今やってる『花束みたいな恋をした』の影響だよ〜、観てないの?」と言われた。さも観て当然みたいなテンションで言われて少しムッとした。「恋愛映画あんまり好きじゃないんだよね」といってわたしは話を逸らした。

 

正直、日本の恋愛映画はわたしの中で勝手に一まとめにカテゴライズされていて、どの映画を観ようか決めるときの優先順位はかなり低い。

 

なので、公開当時も当たり前のように観なかった。

 

 

そんなわたしがどうして観ようと思ったのか、ちょっと前にやっていた『ブラッシュアップライフ』が面白くて、ああいう会話劇みたいなドラマを観たいなと思って何があるかなと探したときに『大豆田とわ子と三人の元夫』がアマプラで配信していた。これも話題になってたなぁ〜と思って、観始めたら面白くて一気に全話観た。GW中で良かった。

そして、坂元裕二監督作品を他にも観たいな〜と思い、1番上に出てきた『花束みたいな恋をした』を観た。

 

 

とんでもない爆弾だった。

 

好きなカルチャーでうっすら他人を差別し見下してる描写、ギリギリ他人にわかるラインのくそしょうもないプライドとマウント、まんま自分過ぎてダメだった。

しかも自分は有村架純みたいに可愛くないし。

こういう人のこと “サブカルワナビー” というらしい。

はぁ〜、キツい。前半の描写全部がキツすぎる。

彼らの趣味趣向の好きは浅くて、一過性のものに過ぎない。映画の段階では人生を変えるほどの好きには出会えてない。なんとなく大衆が好むモノとは違うモノを摂取して、そんな自分に酔っていて、でも無自覚で。

わたしもああいう本棚だし、名画座に行くし、写ルンですで写真も撮っていたし、アニメの実写映画なんて支持できないし、ワンオクも「聴けます」って言っちゃうと思う。

いまは多少マシになったけど、未だにそういう痛さは全然あると自覚している。

 

「どうせ消費され尽くされた量産型エモ恋愛映画だろ」と斜に構えて観ていたら、まさかのそういうわたしたちを真正面からぶん殴りにくる揶揄映画だった。死んだ。

 

 

 

そしてわたしはその映画を観て、過去に付き合っていた人のことを思い出した。

 

その人は歳が一回り離れていたけど好きな音楽が似ていて、好きなものを共有できる時間はとても楽しかった。

でも、好きな音楽は似ていたけど、わたしはお笑いと映画が好きで、彼は演劇とシーシャが好きだった。

きっと好きだと思うと連れられた演劇は、どんな内容だったかもう全然覚えていない。そのあとは演劇に誘われなかったし、行かなかった。シーシャも連れられたけど、別にあんまり美味しくないし楽しくなかった。

わたしが会話の中に芸人のネタを織り交ぜても、彼には通じなかったし笑わなかった。特に下調べもせず、3回目のデートで行った映画は、あんまり面白くなくて気まずい空気になった。

 

だけど全く同じタイミングで、同じ歌を口ずさんだりとか、同じ漫画を同じ熱量で語り合えたりとか、そういう同じ趣味趣向だからこそ過ごせた時間っていうのは本当に楽しかった。

 

だから別れたあとも、彼も好きだったバンドの新譜がよかったとき、思い出す。カラオケに行ったとき、『サイケな恋人』のコールアンドレスポンスして楽しかったなとか、そういうことを思い出す。

だけどそれはそっと思い出のなか。

 

その元彼は多分結婚した。Twitterのアカウントには鍵がかかっているから見れないけど、リプで数人から一気に「おめでとう!」と言われていた。新しい女がいることはなんとなく分かっていたし、いい歳だし、おそらく結婚だろう。

 

だけど、彼の年1で投稿するかしないかのインスタグラムには未だにわたしとの写真が残っている。そういう無神経さがわたしには無理だった。

 

結局趣味が同じでも、恋愛に対する価値観が違うとうまくいかないと思う。あとは、笑いのツボ。

 

いま付き合っている彼とは全く趣味が合わないけど、毎日お腹が痛くなるほど笑っている。

あとは、恋愛の価値観も大体似ている。

趣味が違うからこそ、教えてもらうことも多々ある。わたしの好きなものを馬鹿にされてムカつくこともあるけど、まあそれはそれで、改めて人間同士わかりあうことなんてできないかと、諦めることもできた。好きな人に好きなものを強要することって地味に残酷だもんね。元カレのときは少し無理していたし、わたしも無理をさせていた。

 

 

良くも悪くもこんな感じで色んなことを思った。おわり